郭巨山の歴史

洛中洛外図屏風(上杉本) 狩野永徳
キヤノンならびに特定非営利活動法人京都文化協会
「文化財未来継承プロジェクト」

郭巨山が文献に初めて登場するのは応仁の乱後、祇園社記の明応九年(1600)の鬮定め書の第十六番「みち作山」と記されているのが最初で、「みちつくりやま」の「作山」は当時、毎年屋台上の趣向を変えていた山をいい、「みち」とは茶道、剣道、柔道などの「道」に通ずる「道徳」的な趣向を表現していたと思われます。その後、豊臣秀吉が地子銭(税金)を免除し、近隣町からの寄付(寄り町制度・地ノ口米)を受けられるようになった山鉾町は趣向を固定し、山鉾の大型化や懸装品・飾り金物を充実させることができました。

山鉾町

平安京造営後、大内裏から南への朱雀大路から東を左京、西を右京といい、人々は湿地の多い右京を避け、左京に人家が集まり始めました。当時の区割り(町)の単位は「通りと通りに囲まれた四角形の「エリア」で、ちなみに現在郭巨山町の住所表示は下京区 四条通 西洞院東入る(新町西入る)ですが平安時代は「平安左京四条三坊四町」となります。
武士の時代となった平安末期、鎌倉時代を経て、室町期には平安左京の中でも幕府や公家屋敷の「上京」と商人の「下京」に分かれ、上京と下京を結ぶ「室町通」と「新町通(当時は単に『町』と呼ばれた)」が都のメインストリートととなり、祇園社(八坂神社)と松尾大社を結ぶ四条通と交差する辺りが商人の町として栄えるようになりました。次第に、それまでの通りの向かい側は別の区割りから通りに面した「向かい側」との結びつきのほうが強くなり一つの「町(ちょう)」として機能するようになり、「通りに囲まれた四角形」から「通りに面した両側」が一つの町単位となってきました。

南北朝の頃には祇園祭(祇園御霊会)の費用を公家に代わって下京町衆が出すようになり、祭礼の「神輿迎え」の行事が盛大に行われ、通りの両側に面した「町」から山鉾が都大路に出現するようになってきました。各町内では他の町内と競い合うように山鉾の趣向を凝らし、華麗に飾るようにもなってきました。余談ですが、この「両側町」の境は、通りの交差点になるため町内の安全を守るため町内の両端(交差点の角家)の前に木戸を設け、夜間は番人が木戸門を閉め警備を行いました。角家は木戸番の詰め所にもなるため小売り店には不向きで髪結いを生業とする人が店子として昼間営業していた名残りとして京都の町の角家に理容店が多い、といわれています。

山鉾町の受難

しかし、山鉾町は応仁の乱(1467)、宝永五年(1708)、天明八年(1788)の大火、元治元年(1864)の禁門の変などの京都を焼き尽くす大火に遭い、特に天明の大火では郭巨山は町家と蔵を全焼し、天明五年に新調した前掛・胴掛・後掛だけが難を逃れ、御人形・御山・貴重な古文書などを惜しくも消失しました。寛政元年(1789)より再建に取りかかり、同五年(1794)巡行列に復帰し、順次装備を整えるとともに町内防火体制を強化し、禁門の変では御山胴組を消失したのみで、いち早く巡行に参加し、堂々の一番鬮でした。

文久二年(1862)には疫病流行により急遽九月二日に山を建て、三日に山を飾り付け、四日に町内一同御山を舁いで祇園社へ参詣、神楽を奏して帰町しました。これは山が祇園社へ公式参詣したのは初めてとされます。

文久二年(1862)には疫病流行により急遽九月二日に山を建て、三日に山を飾り付け、四日に町内一同御山を舁いで祇園社へ参詣、神楽を奏して帰町しました。これは山が祇園社へ公式参詣したのは初めてとされます。

明治の大新調

明治二十一年(1888)には美術家フェノロサが図書頭の九鬼隆一とともに来町され、懸装品を鑑賞調査し大いに賞賛されたことを機に、懸装品の修繕と共に、御釜、乳隠し、欄縁、見送金物、屋根金物、角房金物、舁き棒、房類などを新調、足掛け二十年を費やし装飾品の充実を図りました。

昭和三十年頃の巡行当日。四条西洞院にて

車輪の装着

太平洋戦争による祇園祭の休止を経て、昭和31年(1956)からの山鉾巡行路の変更はそれまでの寺町通南下、松原通西行での丸1日をかけた巡行から河原町通北上、御池通西行の時間短縮巡行に変わり、山舁きの頑張りの限度を超えるようになり、昭和38年(1963)から他の山が順次車輪を付け始め、郭巨山は最後まで舁き山にこだわりましたが、昭和41年(1966)に御旅所まで舁いての巡行を最後に、時代の流れに逆らえず、遂に車輪を付け巡行しました。

昭和~平成の大新調

昭和50年(1975)ごろから天明新調の懸装品に傷みが現れ出し、昭和の代の芸術・技術を後世に残すべく懸装品の新調事業に取りかかり、昭和五十四年の御人形の御衣装を皮切りに、上村松篁画伯の四季花鳥図の前掛・胴掛、「阿国歌舞伎図」後掛を新調し、裏千家家元千宗室筆の「漢詩文」見送り、吉田光邦氏の「六人王」前掛、皆川月華作「昇り龍」見送りなどの寄贈を受け、平成六年(1994)の上村松篁筆『都の春』見送の新調により昭和から平成に至る新調事業もひとまずの完成を見ました。

平成十一年の巡行の様子。御池通りにて