京都 祇園祭の魅力

1.祇園祭 歴史のあらまし

794年、桓武天皇は「風水」から東に川(鴨川)西に大きな道(山陰道)南に海・湖(巨椋池)北に山(北山)、また、東青龍、西白虎、南朱雀、北玄武の四神相応の地に、鬼門封じに比叡山延暦寺、鬼門守護には狸谷に不動明王、赤山禅院に泰山府君、幸神社に猿田彦大神。前鬼門に大将軍、北方守護に毘沙門天の鞍馬寺、東方守護に将軍塚、羅城門の両側に東寺西寺、御霊を慰める上御霊神社と神道、仏教、陰陽道で護りを固めた平安京に遷都されました。都市化された京都の民衆は梅雨期の赤痢や食中毒等の伝染病に悩まされるようになり、当時の人々は疫病の流行や突然の災いは、早良(さわら)親王・伊予親王・橘逸成(はやなり)・藤原仲成など、政争に破れた、あるいは冤罪でこの世に怨みを残して亡くなった人の怨霊の祟りと考え、その怨霊を祀り、芸能奉納で慰める御霊会(ごりょうえ)を各神社で開催することで身にふりかかる厄を免れようとしました。

貞観(じょうがん)11年(869)に始まった祇園社の御霊会は祭神の牛頭天王(素戔鳴命)のいわれと伝説から霊験あらたかであったため御霊会の代表格となり、定例化していきました。

牛頭天王は祇園精舎の守護神で防疫あるいは行疫の神格で神仏習合時代のわが国では「ちまき」のいわれから素戔鳴命と同一視され、御霊を慰めるとともに強い神様に守って戴く、あるいは疫神のご機嫌をとることで京の民衆の厄除け祈願と繋がり、疫病が流行らなかったときは感謝を込め、流行ったときは信仰が足りなかったとして、年々盛んになっていきました。

室町期になり、神輿渡御に対する奉納パフォーマンスは下京の町衆に主体は移り、当時の町衆は日本神話、能、謡、中国史話を嗜むことが教養とされ、各町が趣向を競う山鉾巡行の原型が出来あがります。しかし応仁の乱で京の町は灰燼に帰し、焼け出された民衆により全国各地に山鉾巡行の祭が広まっていきました。

三十年間の中断の末、幕府の督促により、明応九年(1500)御霊会は再興し、それまで先陣争いが絶えなかった巡行順をクジで決める「くじ取り」が始まりました。(写真:くじ取り式・平成十五年)

安土桃山時代には豊臣秀吉が税金を免除し、「寄り町制度」による近隣町からの寄付を受けられるようになった山鉾町は装備、装飾に豪華さに充実を図り、江戸中期にはほぼ現在の形態となりました。が、その間、宝永五年(1708)と天明八年(1788)の京都を焼き尽くす大火があり、甚大な被害を受けた。また、元治元年(1864)の禁門の変による兵火でも市内は丸焼けとなり、その都度、町衆は倹約に努め、旺盛な山や鉾を飾る熱意と意欲で旧倍の豪華さを競うように再興しました。

明治に入り、神仏分離令で祇園社は素戔鳴命を奉る八坂神社となり、祇園御霊会は祇園祭となりました。税金免除も寄り町制度もなくなりましたが氏子組織や公的機関からの補助金が祭の運営の一助となっています。昭和37年(1962)重要無形有形民俗文化財の指定を受け、山鉾本体や懸装品の修理や新調に補助金が下りますが、指定当時の姿を守らなければならなくなりました。

2.祇園(ぎおん)

仏教伝来以後「神と仏は一心同体、表裏一体のもの」とする考えが起こり、平安時代になると本地垂迹(ほんじすいじゃく)(神は仏の仮の姿)という仏上位の思想が起こり、明治の神仏分離まで続きました。牛頭天王は釈迦が25年過ごしたといわれる祇園精舎の守護神で、播磨の広峰に垂迹、四条坊城の梛神社を経て八坂の樹下に迎えられ、やがて初代関白の藤原基経が釈迦に精舎を献上した須達長者に倣って邸宅を献上しました。ちなみに平家物語の祇園精舎の鐘は円山音楽堂の西の大雲院に現存し、音楽堂東の双林寺は沙羅双樹林寺を略したものです。

3.牛頭天王(ごずてんのう)

摩羅耶山という牛の頭に似た山から出る栴檀(せんだん)が熱病に効くのでこの栴檀を牛頭と呼び、山を牛頭山と称し、鎮座する神様を牛頭天王とする防疫信仰が生まれました。

蔵王陀羅尼経(ざおうだらにきょう)には「癘鬼(れいき)を縛撃(ばくげき)し、疫難(えきなん)を禳除(じょうじょ)す」とあり、神道集では牛頭天王は天刑星、武塔天神、天道神とされ、天刑星は道教の神で疫神をとってくうとされています。

一方、北天竺の大王は黄牛の顔で鋭い角があり牛頭天王といわれ、南海の龍王の第三王女を妻にせよ、との天示により旅に出たところ、南天竺の巨旦(こたん)大王の国で一夜の宿を乞いましたが断られ、奴婢の娘に教えられた蘇民将来のところへ行くと、貧しいながらも精一杯のもてなしを受け、無事、龍宮に着き、妻を娶り、八王子を得た牛頭天王は巨旦大王を滅ぼしに行き、蘇民将来に「自分は行疫神となるが蘇民将来の子孫には害を与えない」と約束して防疫の方法を教えた、という行疫の伝説もあります。

4.素戔鳴命(スサノオノミコト)

古事記では姉である天照大神の所有田で悪戯を行ったり、大雷雨を降らせたりする神として描かれ、日本書紀では「新羅国(しらぎのくに)に降到(あまくだ)り曽尸(ソシ)茂梨(モリ)に居(ま)します」とあり、韓国語でソシとモリはそれぞれ牛と頭を意味し、また柱と頂点をも意味し、これは鉾の形態に通じます。また韓国江原道春川には牛頭山があり、熱病に効く栴檀を産しました。

出雲国で八俣(やまた)の大蛇(おろち)を退治し、櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)を妻に娶り詠んだ「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに八重垣作るその八重垣を」は、わが国最初の和歌三十一文字といわれます。

備後国風土記では南海を旅した武塔神が蘇民将来の暖かいもてなしに対し、吾はハヤスサノオ神で疫病流行の際、蘇民将来の子孫といえば免れさせる、と神約しました。

伊呂波字類抄には北天竺の吉祥園の城主は牛頭天王といい、又の名を、東王父を父、西王母を母の武塔天神といわれ、龍王の第三王女を后として八王子を生んだとあります。

わが国の神話による素戔鳴命と牛頭天王、武塔神とは本来同一神ではありませんが陰陽道と混ざり、神仏習合されました。

5.八坂神社

市民からは親しみを込めて「祇園さん」と呼ばれる八坂神社は北緯35度線が通過する四条通の東端、東山の地に南向きに鎮座し、主祭神は素戔嗚命(すさのおのみこと)、櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、八柱御子神(やはしらのみこがみ)で、7月17日の神幸祭、同24日の還幸祭の中御座、東御座、西御座の神輿に神霊が移されます。

古来、牛頭天王を祀る祇園社といわれ、仏教色の濃い社でしたが明治の神仏分離で八坂神社となりました。八坂とは山城国(やましろのくに)愛宕郡(おたぎぐん)八坂郷(やさかごおり)の地名で、祇園坂、長楽寺坂、下河原坂、法観寺坂、霊山坂、山井坂、清水坂、安寧坂をさし、天慶5年(942)に奉納された「神風の八坂の里と今日よりぞ君か千歳をはかり初むる」の歌もあります。

斉明天皇2年(656)の創建といわれ、7月の祇園祭と大晦日の白朮(おけら)詣りが有名。境内には蘇民将来を祀る疫神社、北向蛭子社、美御前社の他、数柱の末社があり、本殿。西楼門、北向蛭子社、南楼門前の石の鳥居は重要文化財。本殿は龍神の池の上に建ち、二条城南の神泉苑とつながっているといわれています。また、四神相応の青龍の位置にありこれらのため、祇園祭の懸装品には龍の図案が多く用いられています。

北に知恩院、青蓮院、平安神宮と続き、東の円山公園は桜の名所。南は東大谷、八坂の塔、高台寺、清水寺、西大谷へ。西側は祇園の歓楽街と観光には事欠きません。
四条通突き当たりの西楼門が印象的ですが、正門は南楼門です。

神紋は五瓜に唐花紋、三つ巴紋、祇園守紋で五瓜に唐花紋はキュウリの切り口に似ていることから八坂神社の氏子は祇園祭中はキュウリを食べないという言い伝えもあります。

6.粽(ちまき)

素戔鳴命と牛頭天王の伝説から、蘇民将来の子孫は疫病から免れられ、その目印に茅の輪を付けさせたことが起源とされ、「蘇民将之子孫也」の御札が添えられます。

古代中国では五月五日の端午節は最も災難に遭いやすい日とされ、この日の厄と邪気を祓うため、米や餅を茅萱で巻き上げた粽を作っていました。奈良時代にわが国に伝来してからは神仏に供えられ、後に魔除けや疫病除けに飾られたり、祝いの日の食物になり、旧暦五月五日の田植え祭などで広まりました。使用される葉は茅、茅萱、真菰、蘆、菖蒲、栴檀、月桃、笹などで、形もさまざまです。

祇園祭の厄除けの粽は和菓子の「ちまき」の形ですが一年の厄除けのお守りのため、笹を解いても何も入っていません。各山鉾で由来に因む縁起物が蘇民将来之子孫也の御札と共に添えられ、郭巨山の小判、黒主山の桜、太子山の杉の葉、霰天神山と保昌山の梅の花などが有名です。

寄進を受けた山鉾町は笹で粽を作り、厄除けのお守りとして返礼します。玄関に吊るされ一年の役目を終えた粽は授与された山鉾に返納するか、八坂神社の納札所に納めるか、あるいは節分に地元の社寺に納めてもよろしいいでしょう。
祇園祭の厄除け粽は「神様の宿るもの」「御守」であるため、売るものではなく、「授与する」「お分かちする」もので、また、買うものではなく「受けるもの」です。