■郭巨山の歴史

郭巨山が文献に初めて登場するのは応仁の乱後、明応九年(1600)の鬮定め書の第十六番に記されているのが最初。その後、豊臣秀吉が地子銭(税金)を免除し、近隣町からの寄付(寄り町制度・地ノ口米)を受けられるようになった山鉾町は山鉾の大型化や懸装品・飾り金物を充実させることができた。


十八世紀頃に画かれた郭巨山(山鉾由来記より)

しかし、宝永五年(1708)、天明八年(1788)の大火、元治元年(1864)の禁門の変などの京都を焼き尽くす大火に遭い、特に天明の大火では郭巨山は町家と蔵を全焼し、天明五年に新調した前掛・胴掛・後掛だけが難を逃れ、御人形・御山・貴重な古文書などを惜しくも消失した。寛政元年(1789)より再建に取りかかり、同五年(1794)巡行列に復帰し、順次装備を整えるとともに町内防火体制を強化し、禁門の変では御山胴組を消失したのみで、いち早く巡行に参加し、堂々の一番鬮であった。文久二年(1862)には疫病流行により急遽九月二日に山を建て、三日に山を飾り付け、四日に町内一同御山を舁いで祇園社へ参詣、神楽を奏して帰町した。山が祇園社へ公式参詣したのは初めてとされる。

明治二十一年(1888)には美術家フェノロサが来町、懸装品を鑑賞調査し大いに賞賛したことを機に、懸装品の修繕と共に、御釜、乳隠し、欄縁、見送金物、屋根金物、角房金物、舁き棒、房類などを新調、足掛け二十年を費やし装飾品の充実を図った。


■明治十二年の山鉾御所参入の様子。右方に郭巨山の姿が見える

昭和三十八年(1963)から他の山が順次車輪を付け始めたが郭巨山は最後まで舁き山にこだわった。しかし、御池通りへの巡行コース変更に伴う巡行時間の短縮など、時代の流れに逆らえず、昭和四十一年(1966)を最後に遂に車輪を付け巡行した。


■昭和三十年頃の巡行当日。四条西洞院にて

昭和五十年ごろから懸装品に傷みが現れ出し、昭和の代の芸術・技術を後世に残すべく懸装品の新調事業に取りかかり、昭和五十四年の御人形の御衣装を皮切りに、上村松篁画伯の四季花鳥図の前掛・胴掛、「阿国歌舞伎図」後掛を新調し、裏千家家元千宗室筆の「漢詩文」見送り、吉田光邦氏の「六人王」前掛、皆川月華作「昇り龍」見送りなどの寄贈を受け、平成六年(1994)の上村松篁筆『都の春』見送りの新調により昭和から平成に至る新調事業もひとまずの完成を見た。



■平成十一年の巡行の様子。御池通りにて